2009年2月20日金曜日

グダグダ日記

19日、少し遅めに起床をし朝兼昼飯を食べる。

静かなるマイブーム、温野菜とアンチョビパスタ。

ゆっくり味わっていたら時間がなくなりリュック片手に急ぎ足で飛び出した。

曇り空から太陽が鈍く鉛色に滲む、その日差しは

僕の中での「ロンドン」をイメージさせる。そんな一日がゆっくりと始まった。



バスの中で

いつもと同じ時間にいつもの25番バスに乗り込んだ。

見慣れた顔もちらほらいるが、僕はまだまだ新参者。

席についたとたん変な臭いがするとおもったら

隣のカップルが、フライドチキンとマヨネーズたっぷりかかったポテトを

貪り食ってた。

口の中でチキンとマヨネーズが気持ち悪く混ざり合ったその口で

スペイン語をまくしたてるように会話してるそのボックス席に我慢できず、席を替え、胸クソ悪い空気を換えるため、窓を開けた。
新鮮なひんやりした空気が車内を浄化し始めたころ、

なんとなく、イギリス人が個人主義だといわれる所以を考えていた。

何ヶ月か前にイギリス人に言われた言葉が耳の奥の方でよみがえる。

「達也のいうイギリス人て、なんなの。」

この言葉を発したのは、血統でみても完全な「イギリス人」の血を引いた友人で、

その問に込められた真意を汲み取れば

英語が喋れて、イギリス国籍がある。

それをイギリス人と呼ぶならば、彼らはどうも(?)に感じるということだろう。

具体的にいえば、インド系イギリス人であったり、ほかの有色人種が多数いる中で

純潔のイギリス人が多いのはゆるぎないが、彼らもまたイギリス人であり、

そこで、イギリス人とは~。とかイギリス人だから~という方程式は

日本のようなほぼ単一国家と比べると難しい、むしろその発想すらないのかもしれない。

法で認められた「イギリス人」であろうと、そこには多様な色があり、価値観がある。

そこでの共通理解を図れるのは「法」だけであり、「心」が通わせることは中々難しいのだろう。

経済の効率性を高めるための一つの選択肢である、多民族国家の課題は上で見れば管理システム、底はこのコミュニケーションが課題となる。

話は戻るけど、

日本だと電車の中で携帯で話してるとサラリーマンと若者が殴り合いの大喧嘩になるようなことでも

こっちだと、どれも日常茶飯事だ。もちろん日本と同じでトラブルになることもあるんだろうが

この光景の母数のケタが圧倒的に違う。もちろんロンドンの方が多い。

大きな声でコーラを飲みながらにぎやかに喋る黒人の少年たちは

飲み終えた空き缶を平気で車内に投げ捨て、

忙しそうにインドなまりの英語を流暢に話すビジネスマンもいる。

ファーストフード食ってるやつもいるわけで、

床には新聞紙が散らばる。

不快におもう人もいるんだろうけど、怒ったり、注意するような人は少なくとも僕はまだ見ていない。

日本人のオッサンが、若者注意するのは

日本独特の道徳に基づくものも少なからずもあるのだろうけど

結局はそこには、よくも悪くも「仲間意識」が働いている。

もし仮に、山手線の一車両に対し、乗車する外国人の数が10倍に増えてみたらと考えてみれば

簡単で、車内はもっと騒がしくなるし、汚くなるし、オッサンは言葉を飲み込み、中刷りを眺めるだろう

それがいいとか悪いとか、そんなんが言いたいんじゃなくて。

電車のドアが開いたとたん、

よーいドンで喋っちゃいけないゲームが始まる東京の死んだ車内と、

よーいドンなどそもそもなく、

どこでもガヤガヤしちゃう彼ら、

どちらも両極端で、良し悪しがあるし、居心地のよさは人により違う。


イギリス人が何故個人主義といわれるのかを、言葉だけ認識してた僕はここにきて

なんとなく見えてきた気がした。



学校で

フランス人は、授業に関係なくとも、自分の知識を見せたがる。

スペイン人は、自分の主張を見せたがる。

トルコ人は、悪ふざけをしたり、茶化したり、トルコ人同士で盛り上がる。

イギリス人の先生は、アメリカ人の話す英語を小ばかにする。

タイ人と韓国人は比較的静かに授業を受ける。

日本人は、熱心に電子辞書を引く。

僕はその日の気分で変わるから無国籍。

「学ぶ」という姿勢が共有できるのは、アジア圏。


ズル休み

どうにもこうにも気が乗らなくて、昨日初めてズル休みした。

次の日学校にいったら、みんなに聞かれた

「達也、昨日はどうして休んだの?」

「達也、昨日はいなくて寂しかったよ」

先生すらも

「達也がいないじゃないのエブリワン、なにか知ってる?」

て聞いてたらしい。

みんなだってしょっちゅうしてるズル休みだよ、とは言えずに

神妙な面持ちで

「体の具合がね・・・」ととっさに嘘ついた。

たった一回休んだだけで、こんなに質問攻めにされるなんて。

自分のために、英語を学んでいる僕だけど

ルーティーンしたこの生活に、楽しく向き合えない時もたまにある。

でもそれはそこに通う人の多くが抱える生活のリアルであって、僕だけじゃない。

その中で、僕に会うのを楽しみにしてくれる友達がいる、というのはモチベーションを維持させる

小さな喜び。


泥の香り

ロンドンに来て3ヶ月がたつけど、

ふと思い出す旅の光景にいつも其処に在るのは、空と地平線しか存在しない荒野だったり

活気あふれる列車の風景だったりする。

懐かしくおもうのは、多分、今の僕がもてていないものに

恋しさを覚えているからだろう。

最後に土を触ったのは、目にしたのはいつだろう。

果てしなく続くかと思わせるアスファルトの上を走る真っ赤なバスの中で

心の中の郷愁に意識をトリップさせる。


ライフスタイルの変化

僕だけじゃなく、人間の。

家に帰ると、みんなパソコン触ってる。

ご飯食べたらまた続きを見始める。

テレビはなくても、こんな世の中ネットでいくらでも見つけ出せるから。

パソコンだけで、なんでも出来ちゃうこの便利。

人間が失いつつあるものはなんだろう、と漠然と

横一列に座ってパソコン触ってるみんな眺めて考えてた。

間違いなく言えるのは、想像力の欠如。

クリック一つで正しいとはいえないが一つの答えにたどり着けるインターネットは

思考能力を欠如させる。それは携帯の普及で漢字が書けなくなってきているのと同じで

便利の犠牲になるだろう。

雑誌でいう、紙をめくる質感が好きだとか、ペンを持つ感覚が好きだとか

そういうアナログな部分は文化遺産を守るのと同じで、大事にしたい。


100年前の人間がこの光景を見たら、どう思うのだろう。

たくさんの人間がただ1点を見つめて定位置に座り続け、独り言をいったり、

にやにやしたりして数時間過ごしているのを目にしたら。

そもそも、100年前の人たちは自由な時間をどう使っていたのだろう。

そもそも、僕たちはパソコンがなかった時代の夜を、どう過ごしていただろう。

携帯がなかった時は?

地元の駅もそう、東京の大都市もそう、其処に昔なにがあったか、を

思い出すことが出来なくなるくらい、目まぐるしく生まれ変わる。

都市開発は、地下と空の両方に焦点を合わせ、

シンガポール、台湾との競争に負けないために、

ますますこれからの日本は変わる。

局所集中の東京は、さらに激変するだろう。

その流れは、もう止まらない。

街が変わる、便利が変わる、僕たちはどう、変わる?



かくいう僕も今日はメモとることもなく直接パソコンにカタカタしてる。

明日は、華の金曜日。うしゃ!!

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